
"Mendips" 251Menlove Avenue がジョン・レノンが5歳から23歳まで過ごした家がある所です。
40年の人生の中で一番長い時間を過ごしたのが、この家です。
メンディプスというのは通称で、今でもそう呼ばれています。
1962年にビートルズがデビューしてもしばらくはこの家にいたのです。
ビートルズには実は5人目のメンバーと呼ばれるスチュワート・サトクリフというジョンの友人がいました。
彼は21歳でこの世を去ってしまうのですが、このスチュワートと彼のガールフレンドはジョンに多大な影響を与えたと言われています。
皆さんも聞いたことがあるとは思いますが、初期のビートルズのサウンドを表現した言葉に「マージービート」もしくは「マージーサウンド」というのがありますが、実はこれも当時彼らが地元リバプールを元気にさせるために使いだした言葉だったそうです。
「マージー」とはリバプールの市内を流れる川の名前です。
差し詰め岐阜なら「長良川艶歌」みたいなものですか?
当時失業者が沢山いるリバプールをどうにかしたいという気持ちがこの言葉の根底にあったそうです。
そもそもビートルズ自体、リバプールを有名にしようということでジョンとスチュワートが結成したバンドだったのです。
そして同じ思いでリバプールを元気にしたいと考えていた仲間と彼らは「マージービート」というペーパー誌を発行します。
4畳半程のスペースでこのマージービート誌は生まれ、その第一号の表紙はビートルズが飾りました。
こうやって少しづつビートルズは地元で有名なバンドになっていきます。
彼らはまずリバプールで一番人気のバンドになることを目指しました。
これは今回初めて理解できたことです。
キャバーンと言われる狭くて臭い地下のライブハウスで「必勝の時間戦略」
を続けながら次第に地元で人気のグループになっていったのです。
もし彼らが当時直接ロンドンに行っていたらどうなっていたでしょう?
恐らくその後の成功はロンドンの強者にやられてまったく別の運命を
辿ることになっていたではないでしょうか?!
なぜならばその当時、ビートルズのスタイル自体同じパフォーマンスの
スキッフルバンドが存在し、中小企業でいうところの「差別化されていない」
どこにでもあるバンドだったからです。
また、特筆すべきことがあります。
それはビートルズの成功の陰に隠されているのですが彼らのデビュー前の
量稽古の多さです。
地元のカフェや教会で機会があれば常に演奏をしていたそうです。
その極め付けがハンブルグでの修業時代です。
彼らはドイツのハンブルグのクラブへ出演するために半年ほど行くのですが
夜の7時から最低8時間、ひどい日には夜が明けるまでほとんどぶっ通しで
演奏し続けたそうです。
ビートルズで有名なリバプールのライブハウス「キャバーンクラブ」だけでも
300回近く演奏しています。
驚くことに、彼らは名声を手にした1966年に演奏活動を休止するまで、
年間の半分をツアーに出かけ、多い月で22日間も演奏を続けていたのです。
量稽古がなければこなせなかったスケジュールと言えるでしょう。
彼らはアマチュア時代、物凄い数のヒットソングをコピーして演奏していました。
それは舞台に上がった時にどんな曲でもリクエストに応えられるように
常に他人の曲を何百曲もコピーしていたそうです。
そしてそれ以外の時間をジョンとポールはこのメンディプスなどで曲作りを
していたそうです。
ほとんどこれは、竹田ランチェスターでいうところの必勝の6000時間投入の
世界です。
確かに彼らは天才であったかもしれませんが、努力なく成功したわけでなく
必勝の時間戦略を10代からしていたのです!!!
ジョンは後に当時を振り返ってそういった生活がなければその後のイマジネーションはなかっただろうと語っています。
う~・・・正に「守・破・離」の域、ランチェスター弱者の戦略を実践していた
ジョン様のお言葉・・・
正にビートルズは当時リバプールという片田舎で小規模一位主義に徹していたのです。
ビートルズの成功までの足跡を辿っていくとランチェスター戦略にぴったりと
はまります。
これは本当に興味深いことです。
今までビートルズをそういった角度で見たことがありませんでしたが、
ランチェスターで見ると成功要因のヒントがたくさん隠されていることに
気がつきます。
ちなみに現在ジョンの実家は、ナショナル・トラスト財団によって管理されています。
1966年までジョンの育ての親であるミミおばさんが住んでいたのですが、
ジョンが有名になるにつれて環境が騒がしくなり、ジョンはミミおばさんの為に
もっと田舎にバンガローを購入し、このメンディプスの家を売ってしまいました。
その後、この家が売りに出されていることがオノ・ヨーコが聞きつけ商業目的に売買されるのを避ける為に直接買い取りナショナル・トラスト財団に寄付したそうです。
同じようにポールの家も現在同じ財団で管理されているのですが、ここは別の
イギリス人が買取、同じように管理を財団に任せているようです。
オノ・ヨーコは多額の寄付を財団およびリバプールにしてるそうです。
それはジョンの感謝の気持ちを地元にあらわしているそうです。